11/3(土) 樋口健二(フォトジャーナリスト・日本写真芸術専門学校副校長)
石炭から石油、原子力へと変わる中で、時代と国策に翻弄された人々。
知らされなかった労働現場の実態とは。
そして多くの炭鉱労働者は原発労働者になった。
四日市公害を原点に、日本のエネルギー産業が引き起こす問題と、その裏で苦しむ人々の姿を長年にわたり写真に収めてきた。原発下請け労働者の被曝の事実を徹底的に追い、原発内も撮影。2001年「ワールド・ウラニウム・ヒアリング」(本部ドイツ)の「核のない未来賞」を受賞。また、「原発崩壊」(合同出版)で第17回平和・協同ジャーナリスト基金賞の大賞を受賞。著書に「売れない写真家になるには」(八月書館)、「闇に消される原発被曝者」(八月書館・新装版)など。
11/4(日) 下村健一(元TBS報道キャスター・10/19で内閣審議官を満期退官)
三池と福島。
私たちは何を伝えて、何を伝え損ねてきたのか。
―――ジャーナリストとして、政府広報担当者として
特派員などをへてフリーに。テレビ、ラジオで活躍する一方で、市民の側からの情報発信にこだわり、市民メディア・アドバイザーの活動も行う。その視点から、映画「三池」の特集も放映。2010年、菅直人前首相に請われ、官邸発のニュースのあり方を変えたいと、広報官室の臨時審議官に就任。“内部の人間”として3・11とその後を体験。著書に「マスコミは何を伝えないか」(岩波書店)など。
11/5(月) 保田行雄(弁護士・福島原発告訴団代理人)
福島第一原発の事故は、これまでの公害や薬害と構造が似ているというが、
どこが同じでどこが違うのか。そして私たちは何をすればいいのか。
立ちあがった人々の思いと意味を知る。
薬害エイズ、カネミ油症、水俣病と、患者の側から大企業と国家の犯罪を追及してきた。この6月、1324人の福島県民が、「福島原発事故の責任をただす!」として、企業幹部、国の関係者、学者ら33人を相手に行った、例のない大規模な集団告訴の代理人を務める。著書に「福島原発事故の犯罪を裁く」(宝島社、広瀬隆、明石昇二郎との共著)など。
11/6(火) 本橋成一(写真家・映画監督)
写真を通して見えてくる、炭鉱とチェルノブイリの類似性。
私たちが負わされているのは、いつも誰かの心と、
肉体を犠牲にしなければならない幻の“豊かさ”ではないのか。
初の写真集は「炭鉱〈ヤマ〉」。北海道や九州の炭鉱を訪ね歩き、炭坑夫たちや家族、子どもたちの生きる姿を伝える。炭坑記録画家の山本作兵衛や、三池のCO中毒患者のもとにも通う。以降、上野駅、サーカス、屠場など市井の人々をテーマに多くの作品を残してきた。1997年、チェルノブイリ原発事故で汚染された村に暮らす少女と、その一家を描いた『ナージャの村』を初監督。続いて『アレクセイと泉』(2002年)など。
11/7(水) 鎌田慧(ルポライター・さよなら原発1000万人アクション呼びかけ人)
炭鉱も原発も、現場を見続けてきたからこそ言えることがある。
原発建設に警笛を鳴らし続け、その危惧が現実になった今、
子どもたちのために、原発のない社会を残すにはどうしたらいいのか。
自らの体験をもとに「自動車絶望工場」を発表以降、被差別者や底辺労働者など、弱者の立場に拠ったルポルタージュを数多く執筆。三池炭鉱の炭じん爆発事故の被害者とも、長年にわたりかかわってきた。夕張炭鉱の事故や各地の閉山も見届けている。早くから全国の原発地帯を歩き、カネと原発と民主主義の関係を鋭く指摘。著書に「全記録 炭鉱」(創森社)、「原発列島を行く」(集英社新書)など。
11/8(木) 川崎葉子(双葉町避難者・FFF[ふふふ=福島・福井・福幸]の会代表)
原発事故の後、様々な思いにふたをし、何とか前へ進もうとしている故郷の人々。
避難者の一人として、言葉にならないそんな彼らの気持ちと体験を伝えるため、全国を走り回る。
新たなコミュニティーをこれからどう作れるのか。
福島県富岡町生まれ。いわきの高校卒業後東京の大学へ。その後、福島第一原発から3キロの場所で、歯科医の夫と二人の子どもと暮らしていた。自身もその地で、長年、学習塾を経営。2011年3月11日の翌朝、突然の避難命令が出て、まず郡山へ、さらに知人を頼り家族で福井に避難。この1月、被災者どうしを結ぶネットワーク「FFF(福島・福井・福幸)の会」を立ち上げた。
11/9(金) 大津幸四郎(映画「三池」撮影監督)
三里塚、水俣、三池へ。
日本の現代史に向き合ってきたキャメラマンに「三池」はどう映ったのか?
レンズに託した思いに迫る。
『日本解放戦線・三里塚の夏』(小川紳介監督)や『水俣 患者さんとその世界』『不知火海』(土本典昭監督)などの名作ドキュメンタリーを撮影。劇映画やTV作品も多い。『三池』は、そんなこれまでの仕事の延長線上にあった。また70歳をすぎて、自らが撮影した当時95歳の舞踏家、『大野一雄 ひとりごとのように』で初監督。