わたしの、終わらない旅 3月7日(土)よりポレポレ東中野ほか、全国順次公開

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監督と出演者

監督
坂田雅子(さかた・まさこ)

ドキュメンタリー映画監督。

1948年、長野県生まれ。65年から66年、AFS交換留学生として米国メイン州の高校に学ぶ。帰国後、京都大学文学部哲学科で社会学を専攻。1976年から2008年まで写真通信社に勤務および経営。2003年、夫のグレッグ・デイビスの死をきっかけに、枯葉剤についての映画製作を決意し、ベトナムと米国で、枯葉剤の被害者やその家族、ベトナム帰還兵、科学者等にインタビュー取材を行う。2007年、『花はどこへいった』を完成させる。本作は毎日ドキュメンタリー賞、パリ国際環境映画祭特別賞、アースビジョン審査員賞などを受賞。2011年、NHKのETV特集「枯葉剤の傷痕を見つめて〜アメリカ・ベトナム 次世代からの問いかけ」を制作し、ギャラクシー賞、他を受賞。同年2作目となる「沈黙の春を生きて」を発表。仏・ヴァレンシエンヌ映画祭にて批評家賞、観客賞をダブル受賞したほか、文化庁映画賞・文化記録映画部門優秀賞にも選出された。

坂田雅子(さかた・まさこ)

坂田雅子監督からのメッセージ。福島原発事故から4年の日本。まるで、あの事故がなかったかのように、原発再稼働の掛け声が響く。技術や科学が人間を置き去りにして進んでいく。私たちは、目を見開いて、人間らしく生き続けられる道を探らなければならない。今、わたしに出来ることは「聞いてください」と声をあげ続けること。母がしてきたように。各地を旅してわたしが見聞きしたのは、大きな悲劇のほんの一部でしかない。それぞれの場所、それぞれの人により深く、より多くの襞をもった物語がある。 それでも、知り得たことを映画という形で皆さんと共有することによって私は生きる手応えを感じる。

出演者
母・坂田静子(さかた・しずこ)

1923年、東京都生まれ。海軍の造船技師であった父の職業柄、軍港のあった戸畑、佐世保、呉などに移り住み、父親の欧州留学中は一時須坂に住み、須坂小学校に通う。東京の恵泉女学院を卒業後、東京女子大学国文科に進むが健康が優れず中退。1943年、坂田良次と結婚し、ともに須坂市の薬局の経営に携わる。1945年に長女悠子、1948年に次女雅子、1949年に長男敬が生まれる。1976頃から反原発の運動に深く関わるようになり、1977年5月に「聞いてください」の第1号を発行。92年までの15年間に35号を重ねる。1998年10月19日没。享年74歳。

坂田静子(さかた・しずこ)

聞いてください」No.1 [原子力発電について]じっとしていられない気持ちから、手作りの小さな刷り物をお手許にお届けします。不慣れで字も揃わず、お読みになりにくいでしょうが、どうぞ大目に見て下さいますように。二月の終わり頃、英仏海峡の小さな島で夫や子供と暮らしている娘から、次のようなショッキングな便りが来ました。それによると、「対岸のラ・アーグ(仏)に原子力発電の再処理工場があって、そこから洩れる放射能で牛乳や海産物が汚染されて被害が出始めている上に、近く大拡張の予定との事で、しかもそこでは日本の原発の廃棄物の大部分が再処理される予定との事です。万一大事故が起これば二十五マイル以内は吹き飛んでしまうといいますが、そうでなくても大気中や海に放出され続ける放射能の影響がおそろしいので、皆で相談して反対してゆくつもりですが、英・仏と国も違いここは人口も少ないので、どこまでやれるか不安です。日本ではこういう事を知っているのでしょうか。反対している人もいると聞きましたが…。資料があったら送って下さい。」というものでした。(※以下略。第1号の全文はこちら)

出演者
姉・坂田悠子(さかた・ゆうこ)

1945年、長野県生まれ。イギリス人男性と結婚し、日本で一児をもうけたのち、夫の出身地である英仏海峡のガンジー島に移住。現在まで40年以上、島で暮らしている。1977年、対岸のラ・アーグにある核燃料再生処理場で拡張工事が行われ、さらに日本の原発から出る廃棄物を再処理予定とのことから、その不安を母・静子に手紙で綴る。この手紙をきっかけに静子は反原発運動を始める。

坂田悠子(さかた・ゆうこ)

姉・悠子からのメッセージ 母、坂田静子が逝って速くも16年。2011年には母が怖れていた通り、福島第一原発で想像を絶する大災害がおきてしまい、私達は原発の人間の手には負えない恐ろしさを身を以って知らされました。私の40年来住んでいるガンジー島は、ラ・アーグの核燃料再処理工場が、晴れた日には肉眼で見えるほどの距離にあります。1976年に操業開始された頃には島民の間にも懸念が広がり、そのことを手紙に書いたことが発端となって、母は反原発運動に没頭することになります。それは理屈ではなく、孫たちに安全な世界に生きて欲しいという親だったら誰でもが願う気持ちから始まったものでした。一人でコツコツと深夜過ぎまでガリ版を切っている母の後ろ姿に何処からそれだけの情熱が生まれてくるのか、我が母ながら不思議に思ったこともしばしばでした。時が経つにつれて、少しずつ共感してくださる方が増えていき、日本中に良いお友達が沢山いるのよ、と幸せそうでした。胆嚢癌の発病からわずか6ヶ月足らずの闘病生活でしたが、多くの方から温かく見守られ安らかに逝けたと信じています。まだまだ、やり遂げていないことは沢山あったでしょうが。今回、妹の雅子が母の足取りを辿って、この映画を作り上げたことも、私には何か必然的なことに思えます。 小さな体で一人でカメラと三脚を担いで、世界中どこへでも行ってしまう妹に母の姿が重なってしまう事もしばしばあります。原子力による生活の破壊、その中で闘いを強いられている数多の国の人達。原子力の無い時代はいつ来るのでしょうか?