エドワードは小さい頃エルサレムを離れ、つながりは絶たれてしまった。けれども避暑地だったレバノンには、 つながりがあった。彼の母親や家族は、エジプトから引き揚げた後、レバノンに永住しました。レバノンの私の里の家族に、帰属の意志を示す気持ちもあったと思う。
母との結婚によって人生が変わり、アラブの世界に再びつながりができたと、父は別のインタビューで二度も言ってました。これまで一度もそんなふうに考えたことはなかったけど、今はっきり気がつきました。私にも父と似たような断絶があって、アメリカ人でありながらここに本当には属していないと感じているからです。
父はいつも、パレスチナに十分つくしていないと罪悪感を持っていた。もっと主張し、どしどし書かねばと思っていた。あんなにたくさん本を書き、支持者やファンが大勢いたのに、現実が変わらないので力不足を感じていた。そこまで自分を責めることはなかったのに。
昨年サイードが亡くなる前に、バレンボイム=サイード基金が設立されました。二人ともパレスチナにおける音楽の振興に熱心で、音楽学校や一般の学校での音楽教育を奨励していました。エドワードはそのとき病状が悪くて、残念ながら来られませんでした。でもダニエルが来てくれて、二人のプロジェクトのビジョンを話してくれました。
—誰しも本拠地に在ることはなく、故郷を離れていることが人間の自然なあり方だと、彼は心の底で感じていたと思います。とはいえ、人間は故郷を離れるべき存在であると悟ることと、他の人たちが「故郷」と呼ぶものから文字通り追放されたことには違いがあります。 ですからエドワードは、「故郷」についてときどき物欲しげな興味を抱き、自分には体験できなかったけれど、故郷を持つというのはどんな感じなのだろうと、知りたがったようです。勿論、彼がパレスチナ人のために生涯かけて闘ったのは、彼らが祖国としての故郷を持つためでした。人にはそれを持つ権利があるが、パレスチナ人には現在それがない。でもそれは、誰しもこの世で本拠地に在ることはないという考え方と、ある意味で裏腹になっています。誰にも故郷をもつ権利はあるが、故郷にあっても本拠地にいると感じない権利もある。
彼は自分が在るべき場所を持たなかったけれど、ある意味でコロンビア大学を自分の場所と感じていたと思う。もちろん排斥運動が起こったり、爆発物が置かれる事件などがあり、彼には厳しい状況もあったでしょう。しかし自分の仕事を教え子たちが引き継いでくれるという希望もあったはず。
サイードから受け継ぐべき重要な要素は、文化についての基本的な考えだと思う。彼が登場する前は、まったく浸透していなかったものだ。批評の本質についての彼の考えは、文学という狭い領域に専念するのではなく、より幅広い使命を持つ批評というもので、今日の文学の世界における趨勢とは逆行するもののようだ。世界について語るべきことがあまりない、文芸批評界のファッショナブルな多数派とは、彼はかみ合っていなかった。彼の文章は、文学に根ざし、文学の領域に大きな重要性を持つ一方で、世界全体についても語っている。そこが肝心だ。
ご存知のように彼は人生の大半にわたって、身の危険にさらされていました。万一に備えて自宅に警察との直通ラインを引き、警官による身辺警備を受けたような学者は、他には知りません。他の人達にも脅迫はありますが、これほどのものではありません。私にしてもそうです。
エドワードが民族評議会を辞めたのは、もはやそこで自分にできることはないと感じたからだ。むしろ、そこに残ることによって、自由な意見を発信しにくくなることを懸念した。アラファトに対する不満も大きかった。アラファトは自分の方針に固執する、議論ができない人物だとう思っていた。サイードはアラファトのことを他人の言葉に耳を傾けない人物として見限ったんだ。サイードはオスロ合意に反対したけれど、それはけっして「対話」することに反対したのではなく、そのやり方が承認できなかったのです。
何故だろう、冬が一番好きだ。トタンの屋根もいい雰囲気を出す。とてもいいムードだ。昔に帰った気分がする。この部屋は、追放された後すぐにつくったものだ。だから大切にしている。過去の匂いがするからね。なぜか過去は現在より、よいと感じる。この家は叔父の家だったが、僕たち兄弟が協力して、分割払いで買い取った。人手に渡らないように、家族みんなが同じ家で暮らせるようにね。
私たちの人生は、根こそぎにされた樹のようなものだった。ゼロから立て直しました。民族全体が抹殺され、生き延びた者も過酷な状況をくぐっていた。彼らはそれを乗り越えて、もう一度やり直したのです。家庭を築き、新たに生み出し・・・2世代や3世代の歴史なんて、世界史から見れば、このくらいのちっぽけなものだ。国によっては600年前までさかのぼっても、同じ場所に暮らす家族がいる。系譜とは、そういうものだ。引き抜かれた私たちの根っこ。私たちはここで、新たにそれを育て直しているのです。
みんなそうよ。私たちは兄弟のように一緒に暮らしていたのよ。ユダヤ人もアラブ人もアルメニア人もキリスト教徒も皆ひとつの家族みたいなもんだったのよ。それで一緒に住んで同じ庭を共有していて、みんな一緒でまるで家族みたいだったわよ。祝祭日には私たちのところにお土産をもってきてくれたし、私たちはお祭りの食べ物を全部味見してもらっていたし。私たちはすぎこしの祭りのときには特別のパンを彼らにあげていたし、そんな感じよ。隣近所の人たちは皆いい人たちだったわ。
「マーロット・タルシーハ」と呼ばれているものは、境を接して隣り合う二つの別々の町にすぎない。「共存」なんて言葉の上だけだ。ここには、そんなもの存在しない。子どもたちは一緒に勉強するか? しない。一緒にサッカーをするか? しない。一緒に音楽をやるか? やらない。 いったい、どんな共生があると言うのか?「共存」なんて、悪い冗談に過ぎない。唯一共有しているのは土地だけだ。それが彼らの目的だ。一九六三年の合併構想より前のものだが、ヘブライ語で書かれた文書を、僕は持っている。露骨だよ。書いたのは政府に力を持つ有力者だ。合併の基本的な目的は、タルシーハ村を「レハセル」することだと書かれている。「根絶」という意味だ。「根絶やしにする」 だよ。それが目的だったんだ。
政教分離の民主主義国家を求める人たちは、「二国家分立」案を通じて多くを学んできた。二つの民族集団が存在することはもはや大前提であり、それを考慮しないわけにはいかないことを知った。政教分離の民主国家は、どちらか一方の民の追放や、排除によっては実現できない。二民族の国をつくることに、両者が合意しないとだめだ。その実現の可能性を求めて、エドワードはユダヤ系知識人との対話や共同作業に乗り出した。そこにしか出発点はない。
実際「二民族国家」は、すでにそこにできています。ヨルダン川と地中海のあいだに、一つの二民族国家がある。ただしパレスチナ人の住む地域は、一部は占領されており、残りの部分はイスラエル国内にあって、パレスチナ人マイノリティを差別する準アパルトヘイト体制のもとに置かれている。ですから二民族国家といっても、言葉の響きほど大げさなことを言っているわけではない。現在の政治構造の中で、パワー・バランスを変えようというだけなのです。必要なのはこの二民族な構造の枠内で、パレスチナ人の権限と発言力を増大させ、より多くの代表を送れるようにすることです。今日、ヨルダン川から地中海までの地域の住民は、パレスチナ人が51パーセントに達している。すでに彼らが多数派なのです。
そして彼が築いたのは境界者のアイデンティティでした。西と東、パレスチナとイスラエルの境界に、自らを置いたのです。 でも現実には、私たちはユダヤ人かアラブ人のどちらかであり、イスラエル人かパレスチナ人かのどちらかです。そうしてエドワードは、「私はユダヤ人だ」と言ったのです。イスラエル人には、これが挑発的に響きました。でもエドワードにとって、これは挑発ではなく、心的な状態だったのです。ユダヤ人であというのは、一つの精神のあり方なのです。その意味で、最後のユダヤ人はパレスチナ人たちだと言うこともできるでしょう。
音楽は一つの曲に登場する様々な要素を統合するものなのです。オーケストラにはあらゆる要素がはいっています。バイオリンがどんなに上手でも、オーボエやコントラバスやクラリネットの見せ場を無視するようではバランスがとれません。 彼らの主張と、それへの応答がどこに来るのかがわかっていないとだめです。 エドワードが音楽家だったというのは、こういう深い意味でのことです。この世のものはすべて、他のものに何かしら影響を及ぼしており、他から完全に断絶したものなど一つもないということを彼は知っていました。
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人は愛国的なものの限界を越えることが出来ると彼は感じていました。人々を分断し、仕切りの中に閉じ込めて、民族とか、コミュニティとか、国家によって分類する、ナショナリズムの非常に限定的な言葉づかいの限界を越えることができると。 異なる流れが彼の中を通り抜けていくという考え方はまた、彼自身の祖国喪失者としての生き方、追放されたという感覚を語りながら、同時にまた、その追放を必ずしも否定的なものとしないための彼なりの方法でした。実際のところ、今日の世界で人々が経験しているものがまさにそれであり、これほど多くの人々が移民となり、故郷をなくして生きている現実によく合致するものなのです。でも、それに対して恨みや怒りで対処するのではなく、エドワードはこの多様性の瞬間を糧に一つの哲学を編み出したのであり、それが生涯を通じて彼を支えるものとなったのだと思います。