水俣病-その20年-

水俣病 その20年
公害の原点、水俣病をわかりやすく解説した決定版
  • 1976
    43分

    製作:青林舎
    監督:土本 典昭
    製作:高木 隆太郎
    撮影:大津 幸四郎、高岩 仁 他
    ナレーター:伊藤 惣一

水俣の体験と歴史

水俣病は終わっていない。環境汚染はそっくりそのまま水俣に残されている。同時に、私たちにも水俣の人びとの体験と歴史が残されている。

奇病といわれて

1956年当時、水俣病は奇病といわれた。主に漁村部から次々と発生し、街の人びとは伝染病として忌み嫌った。ネコを使った動物実験等を手がかりに原因究明の努力が続けられたが、初期の患者たちの多くは次々と死んでいった。
この頃、日本はひたすら高度経済成長路線をまっしぐらに突き進んでいた。日本最大の化学工場チッソは不知火海の海辺で酢酸・アセトアルデヒド、塩化ビニールなどを作りつづけ、海に有機水銀を流してきた。しかし、政治・経済の中心地東京から水俣はあまりに遠かった。チッソの排水が水俣病の原因と公式発表されるまで13年かかったのである。
公式発表の前も後もチッソは水俣病の責任を回避しようとする。患者やその家族たち自らが立ち上がるしかなかった。1973年、水俣病裁判が終わった。チッソに加害責任が申し渡された。この裁判闘争をはじめとする患者たち自身の闘いの中から、潜在患者が浮かび上がってきた(1976年現在、申請者三千数百人)。そのほとんどが慢性型水俣病の多様な症状を訴えている。

閉ざされた海

しかし、水俣病の病像はいまだ明らかにされていない。病理学者ですら「水俣病の原因をつきとめて、それが有機水銀であることがわかった時から、脳の病変、神経細胞の脱落は解明できた。それと同時に、治療の方法のないことを認識せざるをえなかった」という。
胎児性水俣病の患者たちは今、青年期を迎える。閉ざされた海、不知火海一一今も不知火海では漁が続いている。